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『末燈鈔』を読む(その177) ブログトップ

第22通 [『末燈鈔』を読む(その177)]

(8)第22通

 『宝号経』にのたまはく、弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、たゞ仏名をたもつなり。名号はこれ善なり、行なり。行といふは、善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこゝろえぬるには、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆへに他力とはまふすなり。
 本願の名号は能生する因なり。能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。

 本云
 凡斯御消息者念仏成仏之咽喉愚痴愚迷之眼目也可秘々々而巳(およそこのご消息は念仏成仏の咽喉、愚痴愚迷の眼目なり。秘すべくして秘すべきのみ)
       于時文安四年丁卯二月晦日

 (現代語訳)『宝号経』にこう説かれています、弥陀の本願は行でもなく善でもなく、ただ仏の御名を保つだけですと。名号は善であり行です。行というのは、善をすることを指すことばです。しかし、本願はもとより仏のお約束と心得ましたからには、それは善でも行でもありません。だからこそ他力と言うのです。
 本願の名号は往生のための因です。往生のための因ということは、父ということです。大いなる慈悲の光明は往生のための縁となるものです。往生のための縁ということは、母ということです。

 およそこれらのお手紙は念仏成仏のための咽喉であり、愚痴愚迷な者の眼目となるものです。みだりに公開すべきではありません。
 時に文安四年(1447年)ひのとう二月末(蓮如)


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