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光の反射 [『末燈鈔』を読む(その181)]

(12)光の反射

 惑星が恒星の光を反射してはじめて光のあることが分かるように、ぼくらが弥陀の名号・光明を反射してはじめて弥陀から名号・光明が発散されていることが分かります。信心とは名号・光明の反射に他なりません。それは名号・光明に何かをつけ加えるのではなく、ただそれを反射するだけです。ただ反射するだけですが、そのことではじめて名号・光明があることになる。
 「なむあみだぶつ」に「なむあみだぶつ」と反射するだけですが、そのことで「なむあみだぶつ」があることになります。因幡の源左は「源左たすくる」に「ようこそ、ようこそ」と反射するだけで何もつけ加えることはありませんが、反射することではじめて「源左たすくる」が存在することになるのです。もし「ようこそ、ようこそ」の反射がありませんと、「源左たすくる」はどこにも存在しません。
 名号・光明は、その反射によってはじめて存在するようになるのです。
 その点で太陽の光と弥陀の名号・光明とは異なります。太陽の光は、まったく反射されなくても、だからと言ってそれが存在しないことにはなりません。まったく反射されませんと、それが存在しているのかどうか分かりませんが、でも太陽そのものを見ればそこから光が出ていることはすぐ分かります。太陽光の存在は、それが何かに受け止められ反射されるかどうかに依存しないということです。
 しかし弥陀の名号・光明は、それが受け止められ反射されてはじめて存在します。もし受け止められず反射されませんと存在しないのです。存在することが分からないのではありません、そもそも存在しないのです。弥陀の名号・光明の存在そのものが、それが受け止められ反射されること、つまり信心に依存するということです。信心がないということは、名号も光明もないということです。
 信心が往生の因というのはそういう意味です。

         (第12章 完)

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