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『末燈鈔』を読む(その184) ブログトップ

しばらく聖道門をさしおきてえらんで浄土門にいれ [『末燈鈔』を読む(その184)]

(3)しばらく聖道門をさしおきてえらんで浄土門にいれ

 「それすみやかに生死をはなれんとおもはゞ、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきてえらんで浄土門にいれ。浄土門にいらんとおもはゞ、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてゝ、えらんで正行に帰すべし。正行を修せんとおもはゞ、正助二業のなかになを助業をかたはらにして、えらんで正定業をもはらにすべし。正定の業といふは、すなはちこれ仏名を称するなり」。
 聖道門を捨てて浄土門を取り、次いで、雑行(万善諸行)を捨てて正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五行)を取り、さらに、助業(正行のうち、称名を除くもの)を捨てて正定業(称名)を取る。かくして専ら称名念仏に帰する。これが法然です。この特徴的な思考パターンが法然の弟子たちに受け継がれ、称名念仏の中においてもまた「あれかこれか」と選択していくことになったとしてもおかしくありません、専ら念仏するとしても、その念仏は「一念であるか、それとも多念か」などと。
 ある人たちは、多念を捨てて一念を取りますが、別の人たちは逆に、一念を捨てて多念を取る。こうして一念義と多念義の争いが生まれてくることになります。
 法然自身が「選択とは〈取捨〉のこと」と言うように、「ただ念仏を取る」ことは取りも直さず「他を捨てる」ことですから、捨てられる側からすれば、おもしろかろうはずはなく、そこに争いが起こることは当然予想されます。ですから法然の思考スタイルの中に争いが組み込まれていると言ってもよく、弟子たちの間にも争いが起こってくるのは必然と言えるでしょう。ところが親鸞は(そしておそらく法然も)「われはといふことをおもふてあらそふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ」と言う。
 選択ということをどのように考えればいいのでしょう。


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