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われはいふことをおもふてあらそふ [『末燈鈔』を読む(その185)]

(4)われはといふことをおもふてあらそふ

 ぼくらは日々、いや時々刻々、選択を迫られています。生きることそのものが「あれを捨て、これを取る」ことと言っていいでしょう。どちらかを選ぶかこころが決まらず、優柔不断と責められることもあるでしょうが、選択を保留することも選択の一種です。どちらかに決めず、様子を見ることを選んでいるのですから。そして何かを選ぶには、その根拠が必要です。何の根拠もなく、やみくもに選ぶことはできません。
 そしてその根拠をめぐってしばしば争いが起こります。
 法然は聖道門を捨てて、浄土門を選び、しかも専修念仏の道を取りました。どういう根拠でそうしたかを明らかにしたのが『選択集』です。当然、聖道門側からそれへの批判、反論が出ます。それが明恵の『摧邪輪』であり、そして定照の『弾選択』です。この『弾選択』への再反論として出された隆寛の『顕選択』が目の敵とされ、嘉禄の法難が起こったことはよく知られています。
 このように何かを選択することには否応なく争いが孕まれているとしますと、「争うな」と言う方が無理というものではないでしょうか。
 ここで着目したいのが「われはといふことをおもふてあらそふこと、ゆめゆめあるべからず」という親鸞のことばです。「われはといふことを」思うから争いになるということです。「われ」が「あれを捨て、これを取ろうとする」から、捨てられた方の「われ」がそれに抗議し、争いになる。「われが」という思いがなければ、争いになることはないのではないでしょうか。
 しかし「われ」が選ぶのでなくて誰が選ぶというのか。選ぶのは「われ」しかないのではないか。


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