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あらそふこと、ゆめゆめあるべからず [『末燈鈔』を読む(その186)]

(5)あらそふこと、ゆめゆめあるべからず

 もう一度「三選の文」に戻りますと、聖道門を捨て浄土門を選ぶのも、雑行を捨て正行を選ぶのも、助業を捨て正定業を選ぶのも、みな「われ」のように見えます。しかしそれは実は弥陀なのです。先に引用した文に続いて、こうあります、「み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり」と。このように、浄土門を選び、正行を選び、正定業を選んだのは他ならぬ「仏の本願」であることが明らかですが、ここに問題を解く鍵があります。
 何度も言いますように、もし「われ」が何かを選ぶのでしたら、捨てられた側の「われ」が反発し争いになります。しかし選んだのが「仏の本願」ならどうでしょう。たとえ誰かが反発して争いを吹っかけてきたとしても、「われ」が選んだのではないのですから、その言いがかりに乗っかって喧嘩を買うことはありません。その辺りを『歎異抄』12章は分かりやすく次のように言っています。
 「たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法はすぐれたりとも、みづからがためには、器量をよばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや」。
 われらは下根の凡夫のための「仏の本願」を信じているだけですから、どうぞ「御さまたげ」ありませんようという気持ちでいれば、「あだをなす」人はないということです。約めて言えば、念仏は「仏の本願」が選んでくださったのだということです。


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