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鎌倉にての御うたへ [『末燈鈔』を読む(その190)]

(9)鎌倉にての御うたへ

 これからの手紙で次第に明らかになってきますが、「鎌倉にての御うたへ」と善鸞の動きとは深くつながっています。親鸞の名代として東国にやってきた善鸞と、古くからの親鸞の直弟子たちとの間に軋轢が生まれ、善鸞は父・親鸞から秘密の教えを受け継いでいるなどと根も葉もないことを言いふらし主導権を握ろうとしたようです。それが結局「鎌倉にての御うたへ」となって性信房が呼び出され、性信房はその対応に苦慮したことと思われます。それが無事に終わり、家に帰ることができたことを6月1日付けで親鸞に報告したことに対する返信がこの手紙(7月9日付け)です。
 先に見ましたように、性信房が親鸞に手紙をしたためた直前に親鸞は善鸞を義絶しています(5月29日)。そして同日そのことを性信房に宛てて報告する手紙を書いているのでした(『親鸞聖人血脈文集』第2通)。親鸞としては、善鸞から送られてくる報告と、東国の弟子たちから来る報告が食い違っていることに戸惑い、事態をなかなか把握できなかったと思われますが、ついに混乱の原因が善鸞の言動にあることを確信して、わが子を義絶するという決断に出たのです。それと相前後して「鎌倉にての御うたへ」が終わり、性信房が無事に帰ることができたということです。
 それを親鸞は「御くだりうれしくさふらふ」と慶んでいます。『親鸞聖人御消息集』第13通には「くだらせたまひてのち、なにごとかさふらふらん」とありますし、『親鸞聖人血脈文集』第4通に「御沙汰どもの様々にきこえさふらふに、こゝろやすくならせたまひて云々」とありますのも同じ趣旨です。いったいどのような「御うたへ」であったのか、その具体的な内容まではつかめませんが、親鸞が「こともあたらしきうたへにてもさふらはず」と言っていますことから、これまで何度も繰り返されてきた念仏に対する言いがかりと大同小異であったと考えていいでしょう。


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