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朝家の御ため国民のために [『末燈鈔』を読む(その193)]

(12)朝家の御ため国民のために

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 さて第1段で、念仏に対する訴訟はこと新しいことではなく、念仏者はいつも聖俗の権力者から目の敵にされるのだと述べたあと、ここにきて「念仏まふさんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはゞ、めでたふさふらふ」と言います。
 戸惑いを覚えないでしょうか。
 すぐ前のところで言いましたが、親鸞にはこうした訴訟の本質がはっきり見えていたに違いありません、彼自身、承元の法難で流罪のうきめにあっているのですから。よく知られていますように、親鸞は『教行信証』の末尾に激しいことばを書き連ねています。「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらむをむすぶ。これによりて真宗興隆の太祖、源空法師、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるひは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に処す。予はそのひとつなり」と。
 にもかかわらず「朝家の御ため国民のために」念仏すべしと言うのです。これをどう読めばいいか。
 戻るようですが、第1段の最後のところで、どう訳せばいいか迷う箇所がありました。「さればとて、念仏をとゞめられさふらひしが、よにくせごとのおこりさふらひしかば」のところです。「念仏が停止されたことがもととなり、世にとんでもないことが起こりました」と訳しておきましたが、それでいいのかどうか。諸訳本に当たってみますと、「念仏をとゞめられさふらひし」とは承元の法難(1207年)のことで、「よにくせごとのおこりさふらひし」とは承久の乱(1221年、後鳥羽上皇の幕府に対するクーデタ)のこととされているようです。
 これはしかし読み込みすぎという気がします。むしろ、念仏が停止されることそのものが「よにくせごとのおこりさふらふ」ことではないかとも思われます。だからこそ「世のいのりにこゝろをいれて」念仏をするのがよろしいと言っているのではないでしょうか。


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