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親鸞と日蓮 [『末燈鈔』を読む(その194)]

(13)親鸞と日蓮

 親鸞はこう言います、「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし」と。その上で、こう言うのです、「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」と。往生不定(往生できるかどうか分からない)と思う人はわが身のために念仏すべきだが、往生一定(もう往生は決まった)と思う人は「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と思って念仏すべきであると言うのです。
 前半は蛇足でしょう。「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のですから、念仏するということは、それがほんものの念仏であれば、もうすでに摂取不捨され、往生一定と信じているはずです。往生不定だから念仏するというのは「自力の念仏」に他なりません。したがってここは、念仏するひとはみな往生一定となっているから、そのご恩に感謝し「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と思って念仏するべきだと言っているのです。
 先に、念仏が抑圧されているのに、抑圧してくる「朝家の御ため国民のため」に念仏するというのはどういうことだろうと疑問を呈しました。
 それを考えるとき、同時代の日蓮(1222~1282年)のことが頭に浮かびます。彼は『法華経』をないがしろにすることが世にさまざまな災難が起こる原因だと主張し、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗派を激しく批判するに留まらず、朝廷や幕府の政治も厳しく弾劾しました。この姿勢は分かりやすい。この日蓮的スタンスでいきますと、念仏を抑圧してくる聖俗の権力者たちに対して果敢に戦いを挑んでいくという姿勢になるでしょう。念仏を抑圧することが「よにくせごと」のおこる原因なのだから、どれほど弾圧されようと、念仏を抑圧してくる者たちに立ち向かっていかなければならないと。


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