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世のなか安穏なれ [『末燈鈔』を読む(その195)]

(14)世のなか安穏なれ

 「朝家の御ため国民のため」に念仏する、あるいは「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と思って念仏するというのは、日蓮的スタンスとは真逆です。『教行信証』末尾の親鸞のことば「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらむをむすぶ云々」も、よくよく読んでいきますと、表面の激しさの下から違った音色が聞こえてきます。自分はあの事件を機に「非僧非俗」の愚禿親鸞として、ほんとうの念仏生活に入ることができたという喜びの声がしてくるのです。
 仏法を貶める者たちに対して戦うという日蓮のスタンスと、その者たちのために祈るという親鸞のスタンス。
 「わたし」と仏法の関わり方が鍵を握っています。日蓮は「わたし」こそが仏法を守らなければならないと考えます。「わたし」が守らなくて誰が守るのかという気概。だからたとえ殺されようと仏法の敵と徹底して戦おうとなります。一方、親鸞はと言いますと、仏法が「わたし」を守ってくれるのです。「仏法によって救われた、あゝ、ありがたい」という思いに包まれ、そこからおのずと「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という思いが生まれてきます。
 親鸞に言わせれば、仏法に敵などないのではないでしょうか。
 阿弥陀仏を無碍光如来と言います。阿弥陀仏の光明は無碍、つまりそれを遮るものがないということです。現に念仏を遮るものがいるではないかと言われるかもしれません。確かに「本願に救われてありがたい」との思いで念仏しているだけの人を、「けしからん奴だ、ちょっと来い」と牢屋に引っ張っていく輩はいます。しかし、本願のひかりが届くのを遮ることばかりはできません。
 光明が摂取してくれるのを邪魔立てすることはできないのです。そして本願が届いた人、光明に摂取された人は、こころから「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」との思いで念仏するに違いありません。

 (第13章 完)

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