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また一念・多念 [『末燈鈔』を読む(その197)]

(2) また一念・多念

 この手紙が宛てられている教忍房という人は下野高田の顕智(真仏とともに高田門徒の中心人物で、下野と京をしばしば往復し、親鸞の臨終にも立会った人です。また『末燈鈔』第5通、いわゆる自然法爾章を親鸞から聞き書きした人物でもあります)の門弟とされます。その教忍房から「銭二百文、御こゝろざしのもの」とともに、「御うたがひども」が寄せられ、それに親鸞が答えているのです。
 その第一点が一念・多念の問題です。
 この問題については『親鸞聖人御消息集』の第6通で「一念多念のあらそひなんどのやうに、詮なきこと、論じごとをのみまふしあはれてさふらふぞかし。よくよくつゝしむべきことなり」と述べられていました(第13章-1、通し番号182)。ここではそれを「よき御うたがひ」とした上で、まず「一念にて往生の業因はたれりとまふしさふらふは、まことにさるべきことにてさふらふべし」と答えます。
 何度も引き合いに出しますが、『歎異抄』第1章に「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」とありますように、「念仏まうさんとおもひたつ」そのとき往生一定となるのです。それが「信楽開発の時刻の極促」であり、そのとき直ちに正定聚となるというのが親鸞浄土教の極意です。したがって「一念にて往生の業因はたれり」と言うべきです。
 親鸞はやはり一念義に立つと言うべきでしょう。
 しかしことは単純ではありません。「信楽開発の時刻の極促」で時間が止まってしまうなら話は簡単ですが、念仏の生活はそこから始まるのです。それはスタートにすぎませんから、「一念のほかに念仏をまふすまじきことにはさふらはず」と言わなければなりません。「往生には一念でたりるが、だからといってそれ以上の念仏をすべきではないということではない」のです。


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