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『末燈鈔』を読む(その201) ブログトップ

第8通第2段 [『末燈鈔』を読む(その201)]

(6)第8通第2段

 また有念・無念とまふすことは、他力の法門にはあらぬことにてさふらふ。聖道門にまふすことにてさふらふなり。みな自力聖道の法文なり。阿弥陀如来の選択本願念仏は、有念の義にもあらず、無念の義にもあらずとまふしさふらふなり。いかなるひとまふしさふらふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからずさふらふ。聖道にまふすことを、あしざまにきゝなして、浄土宗にまふすにてぞさふらふらん。また「慶喜」とまふしさふらふことは、他力の信心をえて往生を一定してむずとよろこぶこゝろをまふすなり。
 常陸国中の念仏者のなかに、有念・無念の念仏沙汰のきこえさふらふは、ひがごとにさふらふとまふしさふらひき。たゞ詮ずるところは、他力のやうは、行者のはからひにてはあらずさふらへば、有念にあらず、無念にあらずとまふすことを、あしふきゝなして、有念・無念なんどまふしさふらひけるとおぼえさふらふ。弥陀の選択本願は、行者のはからひのさふらはねばこそ、ひとへに他力とはまふすことにてさふらへ。一念こそよけれ、多念こそよけれなんどまふすことも、ゆめゆめあるべからずさふらふ。なほなほ一念のほかにあまるところの御念仏を法界衆生に回向すとさふらふは、釈迦・弥陀如来の御恩を報じまいらせんとて、十方衆生に回向せられさふらふらんは、さるべくさふらへども、二念・三念まふして往生せんひとを、ひがごとゝはさふらふべからず。よくよく『唯信鈔』を御覧さふらふべし。念仏往生の御ちかひなれば、一念・十念も往生はひがごとにあらずとおぼしめすべきなり。あなかしこあなかしこ。

 (現代語訳)また有念・無念ということは、他力の法門にはありません。聖道門でいうことです。みな自力聖道門の教えです。阿弥陀如来の選択本願念仏は、有念でもありませんし、無念でもないと申しております。どんな人が言っておられようと、ゆめゆめ取り上げられるべきではありません。聖道門で言われていることをあやまって理解して、浄土宗のなかで云々しているのでしょう。また「慶喜」と言いますのは、他力の信心を得て、往生は定まったと喜ぶ心を申します。
 常陸の国の念仏者の中に、念仏について有念・無念の争いが起こっていることは、間違っていると以前すでに申しました。つまるところ他力と申しますのは行者のはからいではありませんから、有念でも無念でもありませんと言いましたことを、取り違えをなさって、有念だ無念だと争われているのだと思います。弥陀の選択本願は、行者のはからいがありませんからこそ、ひとえに他力だと申しているのです。同じように、一念がいい、いや多念がいいなどと言い争うことも、ゆめゆめあってはなりません。尚、往生には一念で十分で、それ以上の念仏は衆生に回向するものだと言われますのは、釈迦・弥陀二尊の御恩に感謝して十方の衆生に回向するということでしたら、それでよろしいと思いますが、二念・三念して往生することが間違っているわけではありません。『唯信鈔』をよくよく御覧ください。念仏往生のお誓いですから、一念でも十念でも往生は間違いないと思ってください。謹言。


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