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また有念・無念 [『末燈鈔』を読む(その202)]

(7)また有念・無念

 有念・無念の問題が出てきましたが、親鸞は「一念にあらず、多念にあらず」と同じく、「有念にあらず、無念にあらず」と言います。
 文中に「常陸国中の念仏者のなかに、有念・無念の念仏沙汰のきこえさふらふは、ひがごとにさふらふとまふしさふらひき」とありますのは、『末燈鈔』第1通のことを指しているに違いありません(第1章-14、通し番号17)。そこで「選択本願は、有念にあらず、無念にあらず」と述べた後、「浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善義、無念は定善義なり」と言っているのですが、それを「あしふきゝなして」、やれ有念だ、やれ無念だと言い争うことになったのではないかと推測しているのでしょう。
 常陸国中の念仏者宛ての手紙の中に「有念は散善、無念は定善」などとあったものですから、どちらが正しいのかと言い争いになったのでしょうが、そのすぐ前のところで親鸞が述べていますように、「定散の善は諸行往生のことばにおさまるなり。この善は他力のなかの自力の善」なのです。つまり有念といい無念というのはいずれも「自力の念仏」だということです。
 一方、「弥陀の選択本願は、行者のはからひのさふらはねばこそ、ひとへに他力とはまふす」のであって、そこには有念も無念も、一念も多念もありません。
 有念でなければならない、いや、無念でなければならない、あるいは、一念でなければならない、いや、多念でなければならない、などと言い争うのはみな「行者のはからひ」だということです。「行者のはからひ」の世界は「ねばならない」世界です。はからうとは、こうしなければならない、いや、ああしなければならないと、ことあるごとに選択することです。でも本願は「弥陀のはからひ」の世界ですから、ぼくらはそれを「そのままに」いただくだけで、「こうでなければ」も「ああでなければ」もありません。


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