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いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまひらせさふらふ [『末燈鈔』を読む(その206)]

(11)いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせさふらふ

 宿命と言いますと『歎異抄』第13章の印象的な話を思い出します。「たとへばひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひし」というあの話です。唯円が、わたしの器量ではたとえ一人でも殺せませんと答えるのに対して、親鸞は「一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず」と宿業を説くのでした。
 宿命、宿業、業縁などいろいろなことばで呼ばれますが、これは仏教の「縁起」の思想に由来します。すべては「見えない糸」でつながりあっているのです。
 殺人ということも、「よし、殺してやろう」と思って殺すように見えて(実際本人はそのように思っているのですが)、実は自分ではコントロールできない何か「見えない力」が働いているということです。そのように感じるのは、すでにしてしまったことを振り返ってのことです。ことに及ぶときは「激情にかられ」あるいは「われを忘れて」いるのですが、それをあとから省みると何か「見えない力」が働いていたと感じる。
 「あひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせ」るのも同じです。そのときどきは夢中でときが過ぎていくのですが、あとから振り返ってみると、「あゝ、あのときがターニングポイントだった」と思え、そこに「見えない力」の働きを感じるのです。そして一旦そのように感じられると、そこに至るまでの道程にも同じ力が働いていたように思えてきます。すべてが「そうなるべくしてなったのだ」という思いに包まれるのです。
 親鸞は二十九歳のある日、思い立って山を降り、六角堂に籠った。そして夢に聖徳太子が現れ、彼はその朝、吉水の法然を訪ねたのでした。かくして「まうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせ」たのですが、それをあとから振り返ってみると、一連の出来事は諸仏・菩薩のはからいによると思われてきます。さらにそれに至るまでの人生すべてが諸仏・菩薩の「見えない力」のなせるわざと感じられるのです。


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