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よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつる [『末燈鈔』を読む(その207)]

(12)よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつる

 親鸞は「よろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ」ることだけでなく、「よろづの神祇・冥道をあなづりすて」ることも「ゆめゆめなきこと」と言います。仏教で天神地祇というときは、インドラ(帝釈天)やヴィシュヌ(梵天)をはじめとするインドの神々を指しますが、親鸞はそこに日本古来の神々を含めているに違いありません。念仏者が「あなづりすてたてまつる」神々とは、地域の神社に祭られる神々だからです。
 どうして「よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつるとまふすこと、このことゆめゆめなきことなり」かと言いますと、「仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちにそへるがごとくして、まもらせたまふ」からだと言うのです。さてしかし、諸仏・菩薩が仏法を信ずる人を守るのはあるとしても、どうしてよろづの神々が「かげのかたちにそへるがごとくして、まもらせたまふ」と言えるのでしょうか。
 ここには神と仏の長い歴史があります。日本に仏教が入ってきたとき(6世紀)、それを歓迎する崇仏派と拒否しようとする排仏派の争いが起こり、前者の蘇我氏が後者の物部氏・中臣氏に勝利し、聖徳太子を中心として仏教が日本に根づいていくことになるのですが、その過程で神仏習合がはじまり、神々は諸仏・菩薩が衆生救済のために仮の姿をあらわしたものだとする本地垂迹説がおこなわれるようになります。外来宗教としての仏教と日本古来の神信仰の一体化が進んでいくのです。
 かくして諸仏・菩薩のみならず天神地祇も念仏者を「かげのかたちにそへるがごとくして、まもらせたまふ」となるのですが、親鸞にとって、そのように思えるいちばんの根っ子に、あらゆることが、たとえそれが念仏をさまたげることであるとしても、みな念仏のための方便となっているという見方があるのではないでしょうか。第2段でそこを見ていきましょう。


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