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『末燈鈔』を読む(その208) ブログトップ

第9通第2段 [『末燈鈔』を読む(その208)]

(13)第9通第2段

 詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとを、ことにふれて、念仏の人々におほせられつけて、念仏をとゞめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらはんこと、よくよくやうあるべきことなり。そのゆへは、釈迦如来のみことには、念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」ととき、「名無耳人」とおほせをかれたることにさふらふ。善導和尚は、
 五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨(五濁増の時には疑謗多くして、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ひず、修行するもの有るを見ては瞋毒を起こし、方便破壊してきそひて怨を生ぜん)
とたしかに釈しをかせたまひたり。この世のならひにて、念仏をさまたげん人は、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそさふらはめ、とかくまふすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便(ふびん)におもふて、念仏をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとはまふされさふらひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。

 (現代語訳)結局のところ、うそ偽りを言い、何かにつけて、とんでもないことを念仏の人々に申し付けて、その土地の領家・地頭・名主が念仏を停止させようとするのは、よくよくいわれのあることです。といいますのは、釈迦如来は、念仏を謗る人を「眼のない人と名づける」と言われ、また「耳のない人と名づける」と言われているのです。善導和尚は
 「濁りはてた時なればこそ、疑いや謗りが満ち満ちて、僧俗ともに仏法を忌み嫌い、耳をかすこともありません。修行に励むひとがあれば、瞋りの心を起こし事を構えて邪魔だてし、競って怨みを起こすのです」
と説いておられます。この世のならいとして、念仏を妨げるのはその土地の領家・地頭・名主たちで、それにはいわれがあるのですから、とかく言うことはありません。「念仏する人は、念仏を妨げようとする人を哀れに思い、不憫に思って、心を込めて念仏して、妨げようとする人を助けようと思うべきだ」と法然上人は言われました。よくよくお考えください。


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