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その身ひとりこそ地獄にもをち [『末燈鈔』を読む(その212)]

(17)その身ひとりこそ地獄にもをち

 「つぎに」とありますのは、第1段に「まづ」とあったのを受けています。まず「よろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつるとまふすこと、このことゆめゆめなき」ようにと述べ、つぎに「わるきものゝためなりとて、ことさらにひがごとをこゝろにもおもひ、身にも口にもまふすべしとは、浄土宗にまふすことならねば、ひとびとにもかたること」のないようにと述べているのです。この二つが「念仏をとゞめらるゝこと」の理由とされているからです。
 「ところの領家・地頭・名主」が「念仏をとゞめ」てやろうと、てぐすね引いているところに、どうしてわざわざ相手のおもうつぼにはまるようなことをするのですか、という親鸞の嘆きの声が聞こえてきそうです。「かへすがへすこゝろえずさふらふ」、「あさましきことにさふらふ」、「まふすばかりなくさふらふ」とことばを重ね、そして最後にこう言います、「ひがごとをまふしさふらはゞ、その身ひとりこそ地獄にもをち、天魔ともなりさふらはめ」と。
 親鸞もときどき「そんなことでは往生できないかもしれませんよ」と言うことはありますが、「そんなことでは地獄におちますよ」という言い回しはここだけではないでしょうか。もちろんここでは、その人だけのことで他の念仏者には何の咎もありませんということに力点がありますが、それにしても「地獄におちる」とは、親鸞らしからぬ言い回しと言わなければなりません。「念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふ」ことを厳しく抑止しているということでしょう。
 この言い回しで思い起こされるのが第18願の「唯除五逆誹謗正法」です。「ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく」という文言は何を意味するのか。


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