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ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく [『末燈鈔』を読む(その213)]

(18)ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく

 この「唯除五逆誹謗正法」については古来しばしば議論されてきました。当然でしょう。もしこれをそのままに受けとれば、弥陀の本願にも例外があり、その普遍性が崩れてしまいます。本願が本願であるためには、ただのひとつの例外もあってはならないはずです。とすれば「唯除五逆誹謗正法」をどう解釈したらいいのか。
 善導はこれを「抑止」の意味に取り、親鸞もそれを是としているようです(『教行信証』信巻)。
 こういうことです。たとえ五逆の罪を犯しても、あるいは誹謗正法の罪を犯しても、往生できないわけではないが、ただ、それらの罪の重さを知らしめ、決してそのようなことをしてはならぬと抑止しているのだ、というのです。ことはかなり微妙だと言わなければなりません。
 普通でしたら、「かくかくのことをしてはいけません」と言うとき、それに続けて「そういうことをしたらしかじかの罰を受けなければなりません」となるものです。ところがこの解釈では、「五逆と誹謗正法の罪を犯してはいけません」と言いながら、それに続けて「しかしそういうことをしても往生できます」となります。
 これでは抑止にならないのではないかという疑念が生じないでしょうか。
 ここで事前と事後という区別が必要となります。こういうことです、「唯除五逆誹謗正法」は、五逆と誹謗正法の罪を犯してやろうとわざと(事前に)たくらんではいけないと抑止しているのですが、しかし思いがけず(事後的に)五逆と誹謗正法の罪を犯してしまっても、それは往生の障害とはならないと。
 ここまできて造悪無碍と悪人正機の関係がはっきりしてきます。造悪無碍は事前に(わざと)悪をたくらむことであり、それはいけませんと抑止されますが、一方、悪人正機というのは、事後的に(思いがけず)悪をなしてしまうことは往生に差し支えないということです。

           (第14章 完)

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