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師子の身中の虫のしゝむらをくらふがごとし [『末燈鈔』を読む(その221)]

(8)師子の身中の虫のしゝむらをくらふがごとし

 もうひとつ、この追伸でおもしろいと思いますのは、「仏法をばやぶるひとなし」のはずなのに、「念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ」ることはあると言っていることです。そしてそれを「師子の身中の虫のしゝむらをくらふがごとし」と言います。誰も仏法をやぶることができないのに、仏法者が「獅子身中の虫」のように仏法をやぶることはあるというのですが、これをどう理解すればいいでしょう。
 念仏は外からやぶられることはなくても、内からやぶられることはあるというのでしょうか。「領家・地頭・名主」は念仏をやぶることはできないが、たとえば念仏者の中に「造悪無碍」の考え方が広がれば、それが念仏をやぶることになるかもしれないということでしょうか。たしかに東国において「造悪無碍」の動きが念仏者の中に混乱を引き起こしているのは事実です。
 しかし、「造悪無碍」の考え方に動揺し混乱するということは、実は本願に遇っていないからと言わねばなりません。ほんとうに本願に遇っているなら、本願は悪人のためだからといって、悪をおそれる必要はないなどと思うはずはありません。これまでよりも悪をおそれ、できるだけ善に近づこうとするに違いありません。それは親鸞がすでにいろいろなところで指摘してくれています。
 としますと、「造悪無碍」という「獅子身中の虫」は、なるほど「ししむらをくらふ」かもしれませんが、それはそのように思われているだけのことであることが浮かび上がるのです。「造悪無碍」の考えに動揺し混乱する人の側から言いますと、この「獅子身中の虫」によって、ほんとうはいまだ本願に遇うことができていないということに気づかされるということです。
 あとの手紙で親鸞はそのことを大いに嘆くことになります。


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