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『末燈鈔』を読む(その222) ブログトップ

第11通 [『末燈鈔』を読む(その222)]

(9)第11通

 九月廿七日の御ふみ、くはしくみさふらひぬ。さては御こゝろざしの銭伍貫文、十一月九日にたまはりてさふらふ。
 さてはゐなかのひとびと、みな、としごろ念仏せしはいたづらごとにてありけりとて、かたがたひとびとやうやうにまふすなることこそ、かへすがへす不便のことにきこえさふらへ。やうやうのふみどもをかきてもてるを、いかにみなしてさふらふやらん、かへすがへすおぼつかなくさふらふ。
 慈信坊のくだりて、わがきゝたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたづらごとなりとさふらへばとて、おほぶの中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかや、きゝさふらふ。いかなるやうにて、さやうにはさふらふぞ。詮ずるところ、信心のさだまらざりけるときゝさふらふ。いかやうなるにて、さほどにおほくのひとびとのたぢろぎさふらふらん、不便のやうときゝさふらふ。また、かやうのきこえなんどさふらへば、そらごともおほくさふらふべし。また親鸞も偏頗あるものときゝさふらへば、ちからをつくして、『唯信鈔』『後世物語』『自力他力』の文のこゝろども、二河の譬喩なんどかきて、かたがたへ、ひとびとにくだしてさふらふも、みなそらごとになりてさふらふときこえさふらふは、いかやうにすゝめられたるやらん。不可思議のことゝきゝてさふらふこそ、不便にさふらへ。よくよくきかせたまふべし。あなかしこあなかしこ。  
  十一月九日                             親鸞
 慈信御房
 真仏坊・性信坊・入信坊、このひとびとのことうけたまはりさふらふ。かへすがへすなげきおぼえさふらへども、ちからおよばずさふらふ。また余のひとびとのおなじこゝろならずさふらふらんもちからおよばずさふらふ。ひとびとのおなじこゝろならずさふらへば、とかくまふすにおよばず、いまはひとのうへもまふすべきにはあらずさふらふ。よくよくこゝろえたまふべし。
                                     
 (現代語訳)九月二十七日のお手紙、詳しく読みました。そしてお志のお金五貫文を十一月九日にいただきました。
 さて、そちらの人たちがみんな、これまで長い間念仏してきたのは無意味であったと、あちこちで言われているようですが、何とも悲しいことです。様々な書物を書き写してお送りしましたから、持っておられるはずですが、どのように読まれているのでしょうか。何とも納得しかねることです。
 あなたがそちらに行かれて、「自分が聞いてきた教えこそが真実で、みなさんが日頃称えている念仏はみんな意味のないものだ」と言ったものですから、おおぶの中太郎の下にいた人々が九十なん人も、中太郎入道から離れて、あなたの下に走ったと聞いています。どうしてそのようなことになったのでしょうか。結局のところ、信心が定まっていないということでしょうが、どうして、それほど多くの人たちが動揺するのでしょう、悲しいことです。また、このようなうわさがあるからには、偽りもたくさんあることでしょう。また、親鸞も偏向しているのではないかと言われることもあろうかと、これまで力を尽くして『唯信鈔』『後世物語』『自力他力』の文や二河白道の譬えなどを、あちこちの人々のもとへ書いて送りましたことも、すべて無意味となってしまっているようですが、一体どのように教えられているのでしょうか。思いもよらないうわさが聞こえてきますのは悲しいことです。よく事情をお聞かせください。謹言。
 真仏坊・性信坊・入信坊のことをお聞きし、何とも嘆かわしく思いますが、如何ともできません。また他の人々も心を一つにできずバラバラであるようですが、如何ともしがたいことです。人々が同じこころになれないのは、とやかく言っても仕方がありません。今は他の人のことを言うべきではありません。よくお考えになってください。


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