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おほぶの中太郎のかたのひとびと [『末燈鈔』を読む(その223)]

(10)おほぶの中太郎のかたのひとびと

 慈信房への二通目です。11月9日とあるだけですが、建長7年のことなのは間違いないでしょう。親鸞はこの年の9月2日に一通目(第10通)を書き、そして慈信房は9月27日に親鸞宛ての手紙を「御こゝろざしの銭伍貫文」(これはかなりの大金です)とともに送っています。その間が25日しかありませんから、慈信房は親鸞からの一通目を読んでから新たに手紙を書いたのか、それともそれが届くより前に書いたのか判断がつきませんが、とにかく親鸞はその手紙に11月9日付けで返事を書いているのです。
 一読して、慈信房への疑いが非常に濃くなっているのを感じます。一通目でも慈信房の言うようなことがほんとうにあるのだろうかという疑心が感じられましたが、この二通目では、「一体そちらで何が起こっているのですか、あなたはどんなことを人々に話しているのですか」と慈信房へのあからさまな疑念を口にしています。とりわけ「おほぶの中太郎のかたのひとびと」のことについては、そこに強い非難の調子を感じます。
 「おほぶの中太郎」と言いますのは、親鸞の伝記である『伝絵』(下巻第5段)に「そのころ常陸国那荷西郡大部郷(ひたちのくになかのさいのこおりおおぶのごう)に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓(おしえ)を信じて、もつぱらふたごころなかりき」とある「平太郎」のことだろうと思われます(大部はいまの水戸市)。その中太郎のところから「九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて、中太郎入道をすてたる」ことに「どうしてそんなことが」(「いかなるやうにて、さやうにはさふらふぞ」)と問い詰めているのです。
 そんなことになったというのも、慈信房が「わがきゝたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたづらごとなり」と人々に説いているからと言いますから、それは一体どういうことかと親鸞が驚き慌てるのも当然です。文面からしまして、この情報は慈信房以外の誰か(中太郎自身かもしれません)から入ってきたものと思われます。建長7年の9月から10月にかけて、東国の状況について大事な情報がもたらされ、それにより親鸞の疑念が一気に膨らんだように思われます。


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