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そのところの縁つきておはしましさふらはゞ [『末燈鈔』を読む(その228)]

(3)そのところの縁つきておはしましさふらはゞ

 第二と第三は深く結びついていますが、まずは第二点から見ていきましょう。念仏がとどめられて「ところせきやう(窮屈な思いをしているよう)」だとお聞きしていますが、所詮その土地での念仏の縁が尽きたということにすぎませんから、別のところへ移るのがよろしいというのですが、この自由なスタンスには驚かされます。ふと頭をよぎるのは法然の次のことばです。
 「この世をどのように過ごすかは、念仏を第一にして、念仏しやすいように過ごすのがよろしい。…独り身で念仏できなければ、妻帯して念仏しなさい。妻帯して念仏できなければ、独り身で念仏しなさい。家で念仏できなければ、旅の中で念仏しなさい。旅の中で念仏できなければ、家で念仏しなさい。自分で稼ぎながら念仏できなければ、ひとの布施で念仏しなさい。ひとの布施で念仏できなければ、自分で稼ぎながら念仏しなさい。一人で念仏できなければ、みんなと一緒に念仏しなさい。みんなと一緒に念仏できなければ、一人で念仏しなさい」。
 法然自身は独り身を通し、親鸞は独り身で念仏できないから妻帯したのでしょう。そんなことはどちらでもいいということです。
 ここから「その土地で念仏できないなら、他所に移りなさい」というスタンスが出てきます。前に日蓮と比較しましたが(第13章-13)、日蓮なら、もしその土地で念仏がとどめられるようなことがあっても、非は向こうにあるのだから、何ら臆することなくその土地で堂々と戦いなさい、たとえそれでいのちを失うことになっても本望ではないか、と叱咤激励するに違いありません。他所に移るなどというのは、敵に背を向けて逃げ出すことであり、日蓮の選択肢には最初からありえないでしょう。


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