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念仏と政治 [『末燈鈔』を読む(その230)]

(5)念仏と政治

 非僧非俗ということばを手掛かりにしましょう。普通は、僧にあらざれば俗であり、俗にあらざれば僧であるように思います。ところが親鸞は僧にあらず、かつ俗にあらずという。僧と俗は対極にありますが、主観と客観のようなもので、互いに他に依存しています。僧は俗があることで僧であることができ、俗は僧があることで俗であることができます。つまり僧と俗は二つでひとつということです。親鸞が非僧非俗というのは、そのような僧俗関係そのものから降りるということです。
 僧俗関係というのは、親鸞としますと、政治的関係に他なりません。僧は国家から身分を保障されて朝廷と民の安寧を祈り、俗は僧たちを経済的に支えるのです。それが律令仏教のありようでしたが、念仏というのはおよそそのような政治的枠に収まるものではありません。承元の法難で僧籍を剥奪されたとき、親鸞はそうした僧俗関係の政治的枠組みから離脱し、まったく異なる生き方を選んだのではないでしょうか。だからこそ、それが許された後も、京には戻らず関東で生きようとしたと思うのです。その覚悟が非僧非俗ということばに込められています。
 政治から降りるということ。それは具体的には政治的有力者に近づかないということです。政治的有力者に頼って念仏をひろめようとなどと考えないということです。
 政治と念仏とはベクトルが真逆です。政治は世の中に秩序をもたらし、安心して暮らせるようにする営みです。それぞれの立場で、どうすることが安心して暮らせることになるのか考え方がぶつかり、そこからまた争いが生じることになるのですが、しかし世の中が安定していなくてはという思いは同じです。それを自分たちの力でつくりだすことができると信じることの上に政治は成り立っています。
 一方、念仏は自分たちの力では何ともならない魂の安心にかかわります。


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