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念仏と政治(つづき) [『末燈鈔』を読む(その231)]

(6)念仏と政治(つづき)

 念仏は本願に遇うことができたことを喜び、「なむあみだぶつ」と称えるだけです。そこに自分たちの力で何かをしてやろうという思いはまったくありません。念仏を広めなければならないという思いもありません。もちろん念仏が広まるのは嬉しいことです。でも自分が何かをして念仏を広めようなどと思うことはありません。
 金子大栄氏のことばが印象的です。正確な言い回しは忘れましたが、「念仏はインフルエンザのようなもので、自然に広まっていくのだ」というのです。それを裏返しますと、念仏はまたインフルエンザのように、自然に収まっていくこともあるでしょう。それを嘆いても仕方がありません。「そのところの縁ぞつきさせたまひさふらふ」です。
 政治から降りるという話をしてきました。ということは、念仏者は非政治的に生きるということでしょうか。政治から身を引き離すということでしょうか。
 仙人のように山奥で一人生きるのでしたらそういうことも可能でしょうが、如何せん、世の中に生きるしかありませんから、どれほど非政治的に生きようとしても、政治の方から追っかけてきます。非政治的に生きることも、一つの政治的生き方にならざるをえないのです。他所の国と戦争になるかならないかというときに、そんなことは念仏とは関係ありませんと澄ましているわけにはいきません。否でも応でも態度を表明しなければならず、政治的にならざるをえないのです。
 念仏と政治は、他力と自力で、その世界を異にしますが、でも無縁ではいられません。ではどんな関係か。これに一言で答えるのは難しいですが、言えることは、念仏は政治の争い(政治とはすなわち争いです)の中に巻き込まれることなく、政治を利用することもないということ。しかし、いや、だからこそと言うべきでしょう、政治に対して言うべきことをはっきり言う。政治とは別の位相にあるからこそ、政治に対してもの申すことができるのです。


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