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『末燈鈔』を読む(その232) ブログトップ

第12通第2段 [『末燈鈔』を読む(その232)]

(7)第12通第2段
 
 真浄房あて第12通の後段です。

 奥郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれあふておはしましさふらふなること、かへすがへすかなしふおぼえさふらふ。これもひとびとをすかしまふしたるやうにきこえさふらふこと、かへすがへすあさましくおぼえさふらふ。それも日ごろ、ひとびとの信のさだまらずさふらひけることのあらはれてきこえさふらふ、かへすがへす不便にさふらひけり。慈信坊がまふすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあふておはしましさふらふも、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ、よきことにてさふらふ。それをひとびとは、これよりまふしたるやうにおぼしめしあふてさふらふこそ、あさましくさふらへ。
 日ごろやうやうの御ふみどもを、かきもちておはしましあふてさふらふ甲斐もなくおぼえさふらふ。『唯信鈔』、やうやうの御ふみどもは、いまは詮なくなりてさふらふとおぼえさふらふ。よくよくかきもたせたまひてさふらふ法門は、みな詮なくなりてさふらふなり。慈信坊にみなしたがひて、めでたき御ふみどもはすてさせたまひあふてさふらふときこえさふらふこそ、詮なくあはれにおぼえさふらへ。よくよく『唯信鈔』『後世物語』なんどを御覧あるべくさふらふ。年ごろ、信ありとおほせられあふてさふらひけるひとびとは、みなそらごとにてさふらひけりときこえさふらふ。あさましくさふらふ、あさましくさふらふ。なにごともなにごともまたまたまふしさふらふべし。

 (現代語訳)奥郡の人々が慈信坊にだまされて、信心がフラフラしているようですが、何とも悲しいことです。わたしも人々をだましたようにうわさされていますことは、本当に嘆かわしいことです。それも、普段から人々の信心が定まっていないことのあらわれと思われ、何とも哀れに思います。慈信坊が言うことによって、人々の日頃の信心がよろめいたりしますのは、結局のところ、人々の信心がまことのものでなかったことがはっきりしたのですから、その意味ではよかったと言うべきです。それを人々が、わたしが申したように考えられておられるのは、嘆かわしいことです。
 日頃から様々な書物を書き写してお持ちになっておりますが、その甲斐もないような気がします。『唯信鈔』や、さまざまな書物は、今や意味がなくなったのかと感じております。これまで書き写してお持ちになっている法文は、みな意味がなくなったようです。みんな慈信坊の言うことに従って、優れた書物をうち捨てられておられるようですが、本当に悲しく思います。『唯信鈔』、『後世物語』などをよくよく御覧になってください。長い間、信心があると言われてきたことも、みな偽りであったということです。嘆かわしいことです。何事もまたの機会に申しましょう。


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