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慈信房にすかされて [『末燈鈔』を読む(その233)]

(8)慈信坊にすかされて

 慈信房が混乱を引き起こしている張本人(獅子身中の虫)であることはもはや明らかであるとして、親鸞がここで問題にするのは、そんな慈信房にたやすく騙されてしまった人たちのことです。親鸞の嘆きがわが子慈信房のとんでもない言動に向けられるのはもちろんですが、と同時に「慈信坊にすかされて、信心みなうかれあふておはしましさふらふ」人々の不甲斐なさに向けられているのです。
 そして慈信房にすかされるのは「詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ」と述べ、それを「よきことにてさふらふ」と言います。まことであるかのように思っていたのが、はっきりまことでないことが明らかになったのは本人のためにもよいことだと言うのです。ところで、「すかされて」ということばから、ふと頭に浮かぶことがあります。
 『歎異抄』第2章の「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」というあの有名な一節です。この手紙では人々が慈信房にすかされるのは「かなしく」、「ふびん」であると言いながら、自分は法然上人にすかされても「さらに後悔すべからず」と言う。この違いはどこからくるのでしょう。誰にすかされるにせよ、すかされることはよくないのではないでしょうか。
 ここに「まことの信心」とは何かを考える鍵が隠されているような気がします。法然上人にすかされても後悔しないというのは、念仏すれば往生できると上人が言われるのが出鱈目で、実際は地獄にいくとしても、後悔しないということですが、どうしてそんな破天荒なことが言えるのでしょう。それは法然上人のことばに接することができ「むかしの本願が〈いま〉はじまる」(曽我量深)からに他なりません。


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