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『末燈鈔』を読む(その235) ブログトップ

<いま>ということ(つづき) [『末燈鈔』を読む(その235)]

(10)〈いま〉ということ(つづき)

 もう一つ、〈いま〉はもうすでにはじまっています。「〈いま〉地震があった」と言い、「〈いま〉地震がある」とは言いません。もうすでに地震が起こったのです、そしてまだ揺れは続いているかもしれません。「〈いま〉食事をしている」というのも、もうすでに食事ははじまっており、そして継続中という意味です。〈いま〉は現在で、〈もうすでに〉は過去とされますが、〈いま〉と〈もうすでに〉を切り離すことはできません。
 「たり」という助動詞があります。これは完了の助動詞「つ」の連用形「て」に、現在をあらわす「あり」がついた「てあり」が約まったものとされます。この「たり」こそ、〈いま〉と〈もうすでに〉は切り離せないことを如実に示しています。〈もうすでに〉はじまったことが〈いま〉継続しているのです。〈いま〉が幅をもつのはそういうことです。今日も今年もすでにはじまりまだ続いていますから今日であり今年であるわけで、それが終ってしまったら昨日となり昨年となります。
 「むかしの本願が〈いま〉はじまる」とは、むかしの本願が〈もうすでに〉はじまっており、〈いま〉も続いているということです。そしてそれが本願を信じるということです。さて、〈いま〉起こっていることについては疑いを差し挟む余地はありません。〈いま〉地震が起こったことは信じるも疑うもありません。「気のせいだよ」と言われることもありますが、気のせいだとしても揺れを感じたことは確かです。それは天地が引っくり返っても揺らぎません。
 「むかしの本願が〈いま〉はじまった」ことは天地が引っくり返っても確かですから、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」です。


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