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たゞひがふたる世のひとびとをいのり [『末燈鈔』を読む(その238)]

(13)たゞひがふたる世のひとびとをいのり

 少し前のところで念仏と政治について考えました(5,6)。そして親鸞の非僧非俗という覚悟は、僧と俗の政治的関係から降りるということだと述べました。僧は俗(国家や国民)の安寧を祈り、俗は僧を経済的に支えるという律令仏教の構図から降りるということです。さてしかし、ここで親鸞が言っているのは「朝家の御ため国民のために、念仏をまふ」すことであり、「ひがふたる世のひとびとをいの」ることですから、また僧は俗の安寧を祈るという構図に戻っているように見えます。
 ここで是非とも「事前と事後」の区別が必要となります。
 俗の安寧を祈る〈ために〉念仏するのと、本願に遇えたことを喜んで念仏することが〈結果的に〉俗の安寧を祈ることになるのとの違いです。そもそも念仏は何かの〈ために〉するものではありません、たとえそれが自分の往生のためであろうと。念仏は本願を「ききがたくしてすでにきくことをえた」喜びが思わず口をついて出るものです。その念仏が結果的に世の安穏を祈ることになる、それが「たゞひがふたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはゞ、仏の御恩を報じまいらせたまふになりさふらふべし」ということです。
 しかしこの手紙はほんとうにそう言っているのでしょうか。
 文面からしますと、まずは「御身の料(ため)」で、それが「いまさだまらせたまひた」るから、次に「念仏そしらんひとびと、この世、のちの世までのことを、いのりあはせたまふべく」と言っています。第7通の言い回しでは、「まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし」、次いで「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」とあります。
 字面からは、やはり仏の御恩に報いる〈ために〉、念仏をそしる人々のことを思って念仏しなさいと言っているのではないかと思われてきます。


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