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許せないが、許せる [『末燈鈔』を読む(その240)]

(15)許せないが、許せる

 本願に「あひがたくしていまあふことをえた」とき、その嬉しさがつい口をついて出るのが念仏であると繰り返し述べてきました。ですからそれは「ありがたい」でもいいし(ぼくがまだ少年の頃、道で打ち水をかけられても「ありがたい」とつぶやくお婆さんが近所にいて、みんなから変わり者あつかいされていました)、因幡の源左なら「ようこそ、ようこそ」と言うでしょう(これまた源左の口ぐせでした)。そしてその嬉しさは、池に投じられた石が水面に波紋を広げるように、周りに広がり、「念仏そしらんひとびと」のために念仏するということにつながるのではないでしょうか。
 そんなことがどうしてできるのかについては前にも考えましたが(第14章-15)、もう一度そこに立ち返りたいと思います。イエスが「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と言うとき、これはもうぼくらの心情をはるかに超えていると感じ、そんなことを普通の人間ができるわけがないと思います。なるほど、そうしようとしてできることではないでしょう。しかし、ふと気がつくとそうしている自分に気づくということはあるのではないか。
 本願に遇うとは、こんな自分がこんな自分のままでいることが許されていると気づくことです。許されるはずのないこんな自分がそのままで許されている、その嬉しさが外にあふれ出て、自分でも驚くほど優しい気持ちになっていることがあります。自分を迫害するような者は許せないと思う、これはもう人間として自然な思いです。ところがその一方で、迫害者をも許そうとしている自分がいるのです。「許せないが、許せる」というアンビバレントな自分がいる。
 どうして「許せないが、許せる」と思えるのかと言いますと、自分自身が「許されないのに、許されている」からです。

       (第16章 完)

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