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『末燈鈔』を読む(その242) ブログトップ

十二光仏 [『末燈鈔』を読む(その242)]

(2)十二光仏

 十二光仏とは『無量寿経』に「このゆえに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す」とあることによっています。『経』は続けて「それ衆生ありて、この光に遇う者、三垢(さんく、貪欲・瞋恚・愚痴)消滅し、身意(身も心も)柔軟(にゅうなん)にして、歓喜踊躍し、善心生ず」と説いています。親鸞は「正信偈」で「あまねく無量・無辺・無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹(じんせつ、限りない世界)を照らす」と詠っています。親鸞はさらに『浄土和讃』の「讃阿弥陀仏偈和讃」の中で十二光のそれぞれについて和讃を作っています。
 改めて言うまでもありませんが、阿弥陀仏という名自体が「無量の光の仏」という意味です。「阿弥陀」とはサンスクリットの「アミターバ」と「アミターユス」を音訳したもので、「アミターバ」とは「アミタ・アーバ」、すなわち「無量の光」という意味です。「アミターユス」の方は「アミタ・アーユス」、すなわち「無量の寿命」という意味です。このように阿弥陀仏とは無量光仏、無量寿仏ということですが、十二光仏とは、前者の「光の仏」をさらに「無量光・無辺光・無碍光…」と十二の光の名で呼んでいるのです。
 仏に遇うことを「光に遇う」と言い表すことで、仏がより身近な存在になります。ぼくらは普通、仏に遇うことを「仏の声が聞こえる」という形でイメージします。「源左、助くる」と聞こえるのです。仏は耳にやってきます。でも、同時に「光に遇う」という形でも仏の存在を感じるのではないでしょうか。これまで貪欲・瞋恚・愚痴の暗闇に閉ざされていた心に一条の光明が射し込むのを感じる。その時、身も心も柔らかくなって(「身意柔軟にして」)、腹の底から喜びが湧き上がってくる(「歓喜踊躍し」)のを感じるのです。


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