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光に遇う [『末燈鈔』を読む(その243)]

(3)光に遇う

 しかし「光に遇う」とはどういうことでしょう。暗闇に閉ざされていた心に一条の光が射し込むと言いましたが、これだと、まずもって暗闇があり、しかるのちに光があって、暗闇が光で満たされるというイメージです。真っ暗だった部屋に光があふれて、暗闇は消えてしまう、これが光に遇うということでしょうか。
 違うような気がします。
 以前どこかで言いましたが、『創世記』に「神は“光あれ”と言われた。すると光があった」とあります。さて、では光が創られる前は暗闇の世界だったのでしょうか。そうではないでしょう。光がなければ闇もなく、光が生まれてはじめて闇も生まれたはずです。光が生まれる前は、光も闇もない、ただの混沌があっただけです。
 光があって、はじめて闇が闇であることが分かります。ですから、光に遇う経験は闇に遇う経験でもあるのです。光に遇うことで闇が消えてしまうのではありません、むしろ光があってはじめて闇を闇と認めることができるのです。善導の二種深信はそのことを言っているに違いありません。
 改めて善導の文を上げておきますと、「一には決定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受(しょうじゅ)してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であることを思い知るのが「闇に遇う」ことであり、そして「かの願力に乗じてさだめて往生をう」と喜ぶのが「光に遇う」ことです。さて、善導のこの言い回し(「一には」、「ニには」)から、うっかり「まず闇に遇い、しかるのちに光に遇う」ように思いがちです。そして、まず闇に遇うことがなければ、光に遇うことができないように思ってしまう。
 かくして闇に遇うことが光に遇うことの条件とされます、「きみはまだ闇を知らないから光を知ることはできない」というように。


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