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漆黒の闇 [『末燈鈔』を読む(その244)]

(4)漆黒の闇

 しかし光と闇はそのような関係にはなっていません。まず闇の世界があり、しかるのちに光の世界が現れるのではありません。光に遇うことで、はじめて闇を闇と知るのです。光の世界を知ることで、はじめて闇の世界を知るのです。ぼくらは確かに闇の怖さを知っているから光の有り難さを実感できます。善光寺の戒壇巡りをするとき、漆黒の闇の中を手探りでさまよい、ようやく光の世界に戻れたときの安堵感。「ああ、光は何と有り難いことか」と思います。こうしたことから闇の世界から光の世界へというベクトルが描かれることになるのです。
 しかし、ちょっと考えれば分かりますように、ぼくらは大と小、多と少、強と弱、暖と寒などなどを、対になっている概念を同時に会得します(ことばとして使えるようになります)。大だけを会得して小を会得しないということはありませんし、多を会得したが少を会得していないということもありません。それは明と闇も同じで、明だけを会得して闇を会得していないことも、その逆もありません。ですから善光寺の戒壇巡りで、これは漆黒の闇だと認識しているということは、すでに光の明るさも知っているのです。あるいは創世記で、いまだ光が存在しないときは、いまだ闇もなかったのであり、光が現れるのと同時に闇も現れたのです。
 『無量寿経』にありますように、本願の光に遇ったとき、ぼくらは「身意柔軟にして、歓喜踊躍」しますが、でもそのとき同時に罪悪生死の闇が目の前に突きつけられるのです。本願の光が現れたということは、罪悪生死の闇が現れたということです。本願の光に遇うまでも、心の闇を知らないわけではありませんが、でもその闇は「そこそこの闇」にすぎません。闇(悪)があるのは確かだけれども光(善)だってないわけではないと思っています。ですから、それはうすぼんやりした闇であっても、漆黒の闇ではありません。ほんものの光があって、はじめてほんものの闇があるのです。


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