So-net無料ブログ作成
『末燈鈔』を読む(その248) ブログトップ

方便の御誓願 [『末燈鈔』を読む(その248)]

(8)方便の御誓願

 本願はそれを形にして表さなければ存在することになりませんが、なによりも『無量寿経』がそれにあたります。
 この経は釈迦が説いたことになっていますが、もちろんそれは建前で、実際は釈迦が亡くなって数百年後の大乗仏教運動の中で、誰の手でということなく編纂されました。「わたしは釈迦からこのように聞きました(如是我聞)」という形で、弥陀の本願がことばにされたのです。かくして本願は姿を現わしたわけですが、では『無量寿経』が編纂される以前には本願はなかったのでしょうか。そんなはずはありません。もしそうでしたら本願に普遍性(一人の例外もなく一切衆生のためにある)がないことになります。
 悠久のむかしから本願はあったのだということを言っているのが第17の願です。「一切衆生を往生させたい」という願いは、ただ願いとしてあったのではなく、それに形が与えられて一切衆生に届けられてきたのだと。「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずば正覚をとらじ」というのはそういうことです。すなわち、諸仏が弥陀の名を称えるのは、弥陀は一切衆生の往生を願っていることを一切衆生に聞かせるという意味をもっているのです。
 第18願が本来の願で、第17願は方便の願だというのはそういうことです。
 この場合、「方便の」というのは「仮の」あるいは「間に合わせの」ということではありません。本来の願(第18願)がただの願ではなく、現実に存在する願となる「ための」願ということであり、親鸞がよくつかうことばで言えば、「料(れう)」としての願ということです。したがって、決して仮の願ではなく、不可欠の願です。第18願は第17願があってはじめて現実の存在となることができるのです。


『末燈鈔』を読む(その248) ブログトップ