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本願なんて虚構じゃないのか? [『末燈鈔』を読む(その250)]

(10)本願なんて虚構じゃないのか?

 ここでは主に「弥陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義とす」という論点が取り上げられます。「かやうに義のさふらふらんかぎりは」という言い方からしますと、慶西房が親鸞宛ての手紙の中でさまざまに「はからって」いたのではないかと推測されますが、慶西房ならずとも17願と18願についてはいろいろ思い廻らしたくなるものではないでしょうか。
 そもそも「一切衆生を往生させたい(救いたい)」という願いがあるというのはどういうことか、どこにそんな願いがあるのかと疑問に思うのは自然です。
 こんな声がどこかから聞こえてきます、「それが弥陀の願いだと言うが、そんなのはきみが勝手にそう思っているだけではないのか。そう思うのは自由だが、何の根拠もなく、あたかもそんな願いが客観的にあるかのように言うのはいかがなものか」と。あるいはこんな声もします、「諸仏が弥陀の願いをわれらに届けてくれていると言うが、その諸仏というのはいったい誰のことか」と。
 突然ですが、ニーチェのことが頭に浮かびます。大学に入ったばかりのころニーチェにはまっていたことがあります。世のすべての価値秩序は弱者の強者に対するルサンチマンがつくり上げた虚構にすぎないという彼の託宣には驚かされ、「神は死んだ」という宣告は新鮮でした。ユダヤ=キリスト教の神は、生きることの無意味に耐えられない弱者どもが勝手にこしらえた物語だと言うのです。そんなものにしがみつかずに、意味のない人生を肯定して生きよ、と高らかに言い放つ。
 さて翻って本願の教えというのも人生の無意味に耐えられない弱者たちの慰めにすぎないのでしょうか。


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