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他力とは? [『末燈鈔』を読む(その252)]

(12)他力とは?

 わたしが本願をつかみ取ったのではなく、本願がわたしをつかみ取った、という言い方に対して、それはきみがそう思っているだけで、実は無意識のうちにきみが本願をつかみ取っているのだという反論はありえます。たとえば目覚まし時計が鳴っているのを無意識のうちに止めてしまった場合(そして、その結果遅刻してしまうようなとき)、その責任は自分にあります。それを「いや、自分が止めたのではない、自分は止めさせられたのだ」と言っても通りません。やはり自分が目覚まし時計を止めたのです。
 自分が本願をつかんだのではなく、本願が自分をつかんだ、というのも同じでしょうか。そう思っているだけで、やはり自分が本願をつかんだのでしょうか。
 そもそも「無意識のうちに」とはどういうことか。日常的な意味としては「意識しないで」ということで、目覚ましを無意識に止めるというときはこの意味です。何かの事情で意識しないまま行為するのですが、でもやはり自分が行為しているには違いありません。一方、精神分析学で無意識というときは「こころの特殊な領域」のことを指します。われわれのこころの中にあって普段は意識されない領域のことです。自分では言おうと思っていないことが、どういうわけかポロッと口から出てしまって驚くことがありますが、それは無意識の領域に抑圧されていたことがらが思いがけず外に現れたということです。この場合も、広い意味での自分(ひょっとしたらほんとうの自分)がしていると言わなければなりません。
 ですから無意識のうちにわたしが本願をつかみとっているとしますと、どう申し開きしようと、やはり自分がつかみとっているのです。しかし本願がわたしをつかみ取るという経験は、どんな意味でも(無意識のうちにという意味でも)自分が本願をつかみ取るのとは違います。それは痛みがわたしをつかみ取るとき、どんな意味でも自分が痛みをつかみ取っていないのと同じです。痛みは紛れもなく自分の中にありますが、それを自分でつかみ取ったのではありません。


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