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「きたる」と「かへる」 [『末燈鈔』を読む(その253)]

(13)「きたる」と「かへる」

 手紙の最後のところで「来」について、「きたる」でもあり「かへる」でもあると述べていますが、これはおそらく『唯信鈔文意』の一節が話題とされていると思われます。法照(ほっしょう、唐代の僧、後善導とよばれます)の「如来の尊号は甚だ分明なり。十方世界に普く流行せしむ。ただ名を称するのみありて、皆往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎えたまふ」の最後の一句「観音勢至自来迎」について、親鸞は次のように注釈しているのです。
 「来迎といふは、来は浄土へきたらしむといふ。これすなわち若不生者(にゃくふしょうしゃ、『もし生まれずば』)のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり。すなわち他力をあらはす御ことなり。また来はかへるといふ。かへるといふは、願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性(ほっしょう、真如のこと)のみやこへかへるとまふすなり」と。
 来には「来る」という意味と「帰る(還る)」という意味があるようです。現代中国語でも「去」が「行く」であるのに対して、「来」は「帰る」ということで、「你回来了(ニーホエライラ)」で「おかえり」の意味になります(因みに「我回来了(ウォホエライラ)」は「ただいま」です)。いつも思うことですが、「帰る」ということばそのものに何かしみじみとした情感がこもっています。ときに「帰りたいな」と思う、「帰ろうかな」と思う。ここに生きることのもっとも根源的な何かがあるような気がするのです。
 「帰る」というのは、「もといたところに還る」ということですから、「帰りたいな」とか「帰ろうかな」と思うときには、必ず「もといたところ」が思い浮かべられています。それは状況によって、いま住んでいる家であったり、故郷の実家であったり、海外に出ている場合は祖国であったりしますが、とにかくそこが本来そこにいるべき場所、本拠地(ホーム)であり、いまはいろいろな事情でそこを離れているということです。


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