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「帰っておいで」 [『末燈鈔』を読む(その254)]

(14)「帰っておいで」

 「帰りたい」という思いに、生きることのもっとも根源的な何かがあるような気がすると言いましたが、ということは、いまここに生きているのは「アウェイ」であるということです。どういうわけか、気がついたときにはすでにここにいました。以来けっこう長い間ここにいつづけているのですが、こころのいちばん奥深いところで、ここは「ホーム」ではないと感じている。だから、ときにふと「帰りたいな」と思うのではないでしょうか。そしてふと「帰っておいで」の声がします。いや、「帰っておいで」の声がするから、「帰りたいな」と思うのでしょう。帰りを待っていてくれる人がいると思うから、「帰ろうかな」と思うのに違いありません。
 前にちらっとその名を出したことがありますが、この頃気になる人に中島義道という哲学者がいます。彼はたとえばこんなふうに言います、「人が生まれるのも死ぬのも、苦しむのも、楽しむのも、何の意味もないと小学生のころから思っていたのだが、ここ十年ほど、他人の顰蹙をも省みず、そもそも人生は生きるに値しないこと、何をしてもどうせ死んでしまうこと、その限り不幸であること、それから眼を離して生きていることが最も不幸であることなど、繰り返し書き散らしているうちに、奇妙に“明るい”気分が私の体内に育っていった」(『人生に生きる価値はない』)。
 彼は「何をしてもどうせ死んでしまう」ことにいちばんの不幸を感じています。いずれここから退場しなければならないのだから、人生は生きるに値しないと感じています。しかし、ぼくなんかが思うのは、その反対に、いつまでもここにいなければならない方が、よほど不幸ではないか、よほど生きるに値しないのではないかということです。ぼくには「ここに生きることに居心地の悪さを感じる」ことがいちばんの不幸です。ところがふと「帰っておいで」の声がして、「ああ、帰りたいな」と思う。そして不思議なるかな、そう思うだけで、もう少しここにいたいなという気持ちになるのです。

        (第17章 完)

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