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『御消息集善性本』第7通 [『末燈鈔』を読む(その255)]

          第18章 真実信心をうるとき

(1)『御消息集善性本』第7通

 『末燈鈔』、『親鸞聖人御消息集』と読んできまして、次いで『御消息集善性本』に進みます。
 これは善性房によって集成され、高田専修寺に伝えられたもので、全部で7通からなります。うち6通は『末燈鈔』と重なりますから、実質的にはこの第7通だけです。これは、まず専信房から親鸞に寄せられた手紙を上げ、それに対する親鸞の返信が続きます。専信房は『末燈鈔』の第11通と第17通にその名が出てきまして、第11通には「専信坊、京ちかくなられて候こそ、たのもしうおぼえ候へ」とあります(第6章―10、通し番号91)。また親鸞臨終に際してその傍にいて頭を剃ったと伝えられる人です。
 まず、専信房からの手紙です。

 或人云、「往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候ぬれば、同一也。このゆへに不審なし。このゆへに、はじめてまた信・不信を論じたづね申べきにあらず」となり。「このゆへに他力なり、義なきがなかの義」となり。「たゞ無明なることおほはるゝ煩悩ばかり」となり。恐々謹言。
  十一月一日                             専信上

 (現代語訳)ある人が言われますには、「往生が定まりますのは、ひとたび弥陀の本願を信じたときであり、またそのとき弥陀の光明に摂取されるのですから、同じことです。こんなわけで何も不審はありません。こと改めて信・不信を問題にすることはありません」と。また「だからこそ他力であり、義のないことが義です」と言われます。また「ただ無明の中にあって、煩悩に覆いつくされています」とも言われます。恐々謹言。

 あまりに短く約められた文面で、意を汲むのに苦労しますが、ある人(誰のことか分かりません)が言っていることを持ち出して、親鸞にそれでいいのかどうかを尋ねているのでしょう。


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