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『末燈鈔』を読む(その256) ブログトップ

親鸞の返信 [『末燈鈔』を読む(その256)]

(2)親鸞の返信

 専信房の手紙への親鸞の返信です。

 おほせ候ところの往生の業因は、真実信心をうるとき、摂取不捨にあづかるとおもへば、かならずかならず如来の誓願に住すと悲願にみえたり。「設我得仏、国中人天、不住定聚、必至滅度者、不取正覚(せつがとくぶつ、こくちゅうにんでん、ふじゅうじょうじゅ、ひっしめつどしゃ、ふしゅしょうがく)」とちかひ給へり。正定聚(しょうじょうじゅ)に信心の人は住し給へりとおぼしめし候なば、行者のはからいのなきゆへに、義なきを義とすと他力おば申なり。善とも悪とも、浄とも穢とも、行者のはからひなきみとならせ給て候へばこそ、義なきを義とすとは申ことにて候へ。
 十七の願に「わがなをとなえられむ」とちかひ給て、十八の願に「信心まことならば、もしむまれずば、仏にならじ」とちかひ給へり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願はせむなく候べきか。補処の弥勒(ふしょのみろく)におなじくらゐに信心の人はならせたまふゆへに、摂取不捨とはさだめられて候へ。このゆへに他力と申すは、行者のはからひのちりばかりもいらぬなり。かるがゆへに義なきを義とすと申なり。このほかにまたまふすべきことなし。たゞ仏にまかせまいらせ給へと大師聖人のみことにて候へ。
 十一月十八日                              親鸞
専信御坊 御報

 (現代語訳)往生が定まる因と言いますのは、真実の信心が定まりましたら、摂取不捨にあずかりますから、必ず如来のお誓いの力で往生できると第11願に書いてあります。すなわち、「たとえわたしが仏となりましても、わたしの国の人々が正定聚となり、必ず仏の悟りに至るのでなければ、わたしは決して悟りをひらきません」と誓ってくださっているのです。このように信心の定まった人は必ず往生できる身―正定聚―となっていることがお分かりになりましたら、行者のはからいは何も必要ありませんから、義のないことが義であり、それを他力と言うのです。善だとか悪だとか、浄だとか穢だとか、行者がいろいろにはからわないようになってこそ、義のないことが義だと言えるのです。
 第17願で「名号が称えられるよう」と誓われ、第18願に「まことの信心が定まり、もし往生できないようならば、仏とはならない」と誓われたのです。第17願、第18願がまことでしたら、必ず往生する身とならせようという願―第11願―がまことでないはずがありません。信心の定まった人は、次の世に必ず仏となることが決まっている弥勒菩薩と同じ位にいるのですから、摂取不捨と言われるのです。そんな訳で他力とは、行者のはからいが塵ばかりもないことです。ですから、義のないことが義であると言うのです。これ以上言うことはありません。ただ仏にまかせられるのがよろしいというのが法然上人のおことばです。


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