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『末燈鈔』を読む(その258) ブログトップ

約束するということ [『末燈鈔』を読む(その258)]

(4)約束するということ

 ぼくらは「これから」のことについては、「これまで」のデータを根拠として予想するしかありません。そして「これまで」になかったことが「これから」起こる可能性はいくらでもありますから、「これから」についてはどこまでも蓋然性しか期待できません。それに対して「いまここ」で起こったことは天地が引っくり返っても揺るがない現実です。したがって「これから」仏になることは、どこまでも蓋然性に留まりますが、「いまここ」で正定聚に定まったことは、天地が引っくり返っても揺るがない現実です。
 「ちょっと待ってよ」と言われるでしょう、「正定聚に定まるというのは、仏になることが約束されることだから、仏になることが可能性に留まる以上、その約束も可能性にすぎないのではないか」、と。つまりその約束が反故にされる可能性は残るではないかということです。ここで「約束の内容」と「約束されたことそのもの」をはっきり区別しなければなりません。前者は「仏になる」ことで、後者は「仏になると約束されたこと」です。前者は「これから」のことですから可能性に留まりますが、後者は「いまここ」で起こったことですから現実です。
 しかし、さらに疑問の声が上がるでしょう。なるほど約束されたことは現実だが、大事なのはその中身だから、中身が可能性にすぎないなら、約束されたことが現実であることにどんな意味があるのか、と。「ぼくが死んだら、遺産にきみに上げる」という約束は、約束されたこと自体はどれほど確かでも、その中身があやふやなら、つまり後で心変わりする可能性があるなら、約束そのものがあやふやと言わざるをえないのではないか、と。おっしゃる通り、約束にはどこまでも曖昧さがつきまといます。そこで一筆書いておいてもらうとか、他の誰かに証人になってもらうとかして、なるべく曖昧さがなくなるよう工夫するのでしょう。


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