So-net無料ブログ作成
検索選択
『末燈鈔』を読む(その261) ブログトップ

地獄は一定すみかぞかし [『末燈鈔』を読む(その261)]

(7)地獄は一定すみかぞかし

 「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」に続いてこうあります、「そのゆゑは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」。
 自分はもともと地獄行きに決まっているのですから、約束がウソであったとしても、もとどおりに地獄に行くだけです、何の後悔もありません、と言うのです。
 約束が反故にされてはたまらないと思うのは、その約束をやっとの思いで勝ち取ったからです。あるいは、前々からそうなってほしいと切望していたことが約束されたからです。願いがかなったと喜んだのに、それが反故にされるのはたまりません。前々から極楽往生できる可能性があるとは思っていたが、ようやくその確かな約束を自分で「手に入れた」のに、それを取り逃がしてしまうのはたまらない。
 しかし「仏になれますよ」という約束は思いもかけずやってくるものです。
 自分としては「地獄は一定すみかぞかし」と思っていたところに「仏になれますよ」という約束が突然やってきた。いや、このように言うと誤解を招くかもしれません。前もって「地獄は一定すみかぞかし」と思っていて、しかる後に「仏になれますよ」という約束がやってくるわけではありません。この二つは同時にやってきたはずです。
 ぼくらは本願に遇ってはじめて「地獄は一定すみかぞかし」と思い知るのです。そしてそう思い知るからこそ「仏になれますよ」という本願が身に沁みるのです。この二つ(善導の「機の深信」と「法の深信」です)は切り離せません。まず闇があって、しかる後に光があるのではなく、光があってはじめて闇があるのです。
 光の気づきと闇の気づきは一体です。


『末燈鈔』を読む(その261) ブログトップ