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摂取不捨ということ [『末燈鈔』を読む(その262)]

(8)摂取不捨ということ

 何となく「極楽は一定すみかぞかし」と思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、これから先のことはどうなるか分からないから、できれば絶対に極楽に行けるという約束を得たいと思う。そんな人は、せっかく得られた約束が反故にされてはたまらないと思うことでしょう。
 しかし何度も言いますように、本願に遇うときというのは、思いもかけず「仏になれますよ」という約束がやってくるのです。しかもその嬉しさの裏には「地獄は一定すみかぞかし」という悲しみが張り付いています。だからこそその約束のありがたさが身に沁みるのですが、そのときのこころの内を覗いてみますと、もうその約束だけで充分という思いがあるのではないでしょうか。
 それが「地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」ということで、なぜかと言いますと、もうすでに「摂取不捨」されているからです。
 本願に遇うとは、何度も言いますように、思いもかけず「仏になれますよ」という約束がやってくることですが、それはより具体的には、「帰っておいで」という不思議な声が聞こえるということです。何となく居心地の悪さを抱えてこの世を生きているところに「帰っておいで」の声がする。その声に俄然「ああ、帰りたいな」の思いが膨らみます。欲生心です。これまた繰り返し言ってきたことですが、「帰っておいで」という声がするから、「帰りたいな」と思うのです。帰りを待ってくれている人がいるから帰ろうと思うのです。その逆ではありません。
 そして「帰っておいで」の声さえ聞こえれば、もう何もいらないと思います。そして、たとえ実際には帰れなくてもかまわないと思います。「帰っておいで」と言ってくれる人がいるだけで、帰りを待ってくれている人がいると思えるだけで、もう帰っているにひとしいではありませんか。これが「摂取不捨」ということです。「帰っておいで」という願いに全身を包み込まれているのです。

          (第18章 完)

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