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『末燈鈔』を読む(その265) ブログトップ

『血脈文集』第2通第2段 [『末燈鈔』を読む(その265)]

(3)『血脈文集』第2通第2段

 さて第2段、手紙の核心部分です。

 そのゆへは、往生の信心とまうすことは、一念もうたがふことのさふらはぬをこそ、往生一定とはおもひてさふらへ。光明寺の和尚の、信の様ををしへさせたまひさふらふには、まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからずとこそうけたまはりてさふらへば、その様をこそ、としごろまうしてさふらふに、慈信ほどのものゝまうすことに、常陸・下野の念仏者の、みな御こゝろどものうかれて、はてはさしもたしかなる証文を、ちからをつくしてかずあまたかきてまいらせてさふらへば、それをみな捨てあふておはしましさふらふときこえさふらへば、ともかくもまうすにをよばずさふらふ。
 まづ慈信がまうしさふらふ法文の様、名目をもきかず、いはんやならひたることもさふらはねば、慈信にひそかにをしふべき様もさふらはず。またよるもひるも、慈信一人に、人にはかくして法門をしへたることもさふらはず。もしこのこと慈信にまうしながら、そらごとをもまうしかくして、人にもしらせずしてをしへたることさふらはゞ、三宝を本として、三界の諸天・善神、四海の竜神八部、閻魔王界の神祇冥道の罰を親鸞が身にことごとくかふりさふらふべし。
 自今已後は慈信にをきては子の義おもひきりてさふらふなり。

 (現代語訳)と言いますのも、往生の信心というものは、ただの一念も疑いがないからこそ、往生は確かに定まると思えるのです。光明寺の和尚は信心について次のように教えてくれます。真実の信心が定まりましたら、弥陀のような仏や、釈迦のような仏が空一面に現れて、釈迦の教えや弥陀の本願は偽りだと言われても、ただの一念も疑いは入り込みませんと。このようにお聞きしてきましたことをこれまで申してきましたのに、慈信ごときの言うことに常陸・下野の念仏者たちが惑わされ、果ては、これまで力を尽くして書き送りました数多くの確かな書物をみなうち捨てられてしまったと聞きましては、もうことばもありません。
 そもそも慈信が申しております教えのことですが、その名前さえ聞いたこともなく、まして学んだこともありませんから、慈信に密かに教えようもありません。また夜にせよ昼にせよ、慈信一人だけに密かに教えたこともありません。もし慈信に教えていながら、偽りを言って人に隠しているとしましたら、三宝をはじめとして、三界の諸天・善神、四海の竜神八部、閻魔王界の神祇冥道の罰をすべてこの親鸞の身にかぶりましょう。
 今日限り、慈信との親子の縁を切ります。


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