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あひがたくして [『末燈鈔』を読む(その270)]

(8)あひがたくして

 慈信房の言っているらしいことについて、親鸞はこの手紙でひとつひとつ否定しています。まとめておきましょう。
 1.「慈信がまうしさふらふ法文の様、名目をもきかず、いはんやならひたることもさふらはねば、慈信にひそかにをしふべき様もさふらはず」。
 2.「またよるもひるも、慈信一人に、人にはかくして法門をしへたることもさふらはず」。
 3.「世間のことにも、不可思議のそらごと、まうすかぎりなきことどもを、まうしひろめてさふら」ふ。
 慈信房が人々に言いふらしていることは多岐に渡るようで、念仏の教えに関わることに留まらず、「世間のこと」についても「不思議のそらごと」を「まうしひろめて」いるようです。最後に読むことになります慈信房宛ての義絶状には「母のあま」のことが出てきますが、そのことでしょうか。しかし何と言っても親鸞にとってもっとも由々しきことは「弥陀の本願をすてまいらせさふらふことに、人々のつきて、親鸞をもそらごとまうしたるものになしてさふらふ」ことです。
 前に述べましたように、本願を捨てることはできませんから、その人たちはもともと本願に遇っていなかったと言うべきでしょう。親鸞としては、法然上人から受け継いだ「なむあみだぶつ」のバトンを東国の多くの人たちに受け渡したものと思っていたのに、あにはからんや、リレーがつながっていなかったということです。親鸞の落胆した顔が見えるようです。
 親鸞は「あひがたくしていまあふことを得たり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」と述懐しましたが、本願はいかに「あひがたい」か、いかに「ききがたい」ものかを改めて嚙みしめたのではないでしょうか。


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