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第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて [『末燈鈔』を読む(その280)]

(7)第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて

 「このよのことなれば」どのような「そらごと」も驚かないが、「往生極楽の大事」についての「そらごと」は見過ごすことはできないと、慈信房が「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて」人々を惑わしていることを取り上げます。これまた慈信房がどんな意図でそんなふうに言っているのか定かではありませんが、親鸞にとって第十八の本願を否定されては「いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり」と言うしかありません。
 「しぼめるはな」とは、もう耀きを失い、朽ち果てるのを待つだけといったことを言おうとしているのでしょうが、だとしますと、それは浄土の教えの根幹を否定することであり、まさに「はうぼふ(謗法)のとが(咎)」と言わなければなりません。それは第十八の本願に「ただ五逆と誹謗正法をばのぞく」とありますように最大の罪です。それを他の誰かがするならまだしも、わが子・慈信房がしているのです。しかも、それが親鸞自身の考えであると言いふらしているとなりますと、もう義絶しか取るべき道はないでしょう。
 ここでもう一度確認しておきたいと思いますのは、親鸞がわが子を義絶したからといって、「人間のクズ」とは思っていないということです。
 第十八の願の「ただ五逆と誹謗正法をばのぞく」は、決して「そんな人間のクズは地獄行きだ」ということではありません。同じように、「いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり」と言うことは、決して「おまえのような人間のクズはくたばってしまえ」ということではないと思います。この手紙で親鸞はわが子に「おまえのしていることは五逆であり誹謗正法である」と諭していますが、本願の「ただ五逆と誹謗正法をばのぞく」は、「五逆や誹謗正法を犯してはいけない」ということであり、「五逆や誹謗正法を犯したら往生できない」ということではないのです。

          (第20章 完)

 これで「『末燈鈔』を読む」がすべて終わります。明日から「『正信偈』を読む」を始めたいと思います。

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