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第17願 [『正信偈』を読む(その5)]

(5)第17願

 「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏をうやまいます」ということですから、それを阿弥陀仏自身が称えるのは不自然ではないでしょうか。この疑問に答えてくれるのが第17願です。親鸞の独自性のひとつはこの第17願に注目したところにあります。
 「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、讃える)してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ(親鸞の読み)」。
 ここに「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏をうやまいます)」と呼びかけるのは誰かという問いに対する答えがあります。それは「十方世界の無量の諸仏」です。親鸞以前は誰も第17願のもつ意味に眼をつけることはありませんでした。しかし親鸞は「聞其名号」ということばにこだわることから、第17願に着目するのです。
 先ほど言いましたように『無量寿経』には繰り返し「その名号を聞きて」ということばが出てくることから(3)、名号はわれらが「称える」より前に「聞こえてくる」ものだと言わざるをえません。さて、「南無阿弥陀仏」は「こちらから」称えるのではなく、「向こうから」聞こえてくるとすれば、そして阿弥陀仏自身が「南無阿弥陀仏」と呼びかけるのはおかしいとすれば、それは第17願の「十方世界の無量の諸仏」しかありません。
 「はじめての『教行信証』」でも述べましたように、善導や法然は第18願を「念仏の願」と捉えましたが、親鸞は第17願を「念仏の願」とし、第18願は「信心の願」としたのです。
 この違いの根っ子にあるのは、名号をどう見るかということです。それを、われらが称えるものと見れば、第18願が「念仏の願」となります。われらがわずか十声でも名号を称えれば往生できるというのですから。しかし、名号とは諸仏が阿弥陀仏に「阿弥陀仏をうやまいます」と呼びかける声であり、その声がわれらに聞こえてくるものだとしますと、第17願が「念仏の願」となります。


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