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応答するということ [『正信偈』を読む(その6)]

(6)応答するということ

 もちろん「南無阿弥陀仏」はわれらも称えます。でもそれはわれらから阿弥陀仏に呼びかけているのではなく、諸仏から聞こえてくる「南無阿弥陀仏」に応えているだけです。
 諸仏が阿弥陀仏に「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏をうやまいます)」と呼びかけている声が聞こえてきます。それは阿弥陀仏を咨嗟する(ほめたたえる)声ですが、われらには「帰っておいで」と聞こえるのです。それが胸に沁み、喜びがおのずと溢れてきて、われらも「南無阿弥陀仏」と応える。「帰っておいて」の呼びかけに「はい、ただいま」と応答しているのです。
 名号が「阿弥陀仏」ではなく「南無阿弥陀仏」であるのはどうしてかを考えてきました。それは、名号とはいうものの、呼びかけのことば、挨拶のことばであるからです。
 みなさん、ジャック=デリダというフランスの哲学者をご存知でしょうか。などと言いますと、いかにもぼくがよく知っているように聞こえるでしょうが、実はほんの少しばかり知っているだけです。教師の悪い癖で、ほんの少ししか知らないのに、いかにも全部知っているかのような顔をするのです。教師という種族には気をつけた方がよろしいかと思います。
 さて、デリダという人はこう言います。ぼくらが発することばは、それが話しことばであれ、書きことばであれ、誰かとの対話である場合はもちろん、独り言であっても、とにかく何かを言う、あるいは書くとき、それに先立って、どこかから誰かの呼びかけがあり、それに応えてことばを発しているのだと。
 典型的な独り言である日記を考えてみましょう。誰かに読んでもらうことなんか考えずに(それを意識して書く日記もあるでしょうが)、ただその日にあったこと、思ったことを記録しておこうとする、これが日記ですから、誰かの呼びかけで書いているのではなさそうに思えます。しかし、何の得にもならないのにどうして日記を書くのかと考えますと、やはり誰と特定することはできなくても、どこかから呼びかけられたからではないかというデリダの説は説得力があります。


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