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ことばにならない(つづき) [『正信偈』を読む(その15)]

(6)ことばにならない(つづき)

 釈迦がある気づき(無我という気づきです)を得て大きな喜びを感じた。これは確かでしょう。でもそれは自分の力で得たものではなく(気づきはもとももと自分で得るものではありません)、どこからかやってきたものです。だから「こころもおよばれず、ことばもたへたり」です。
 「こちらから」手に入れたものでしたら、ことばにできるはずです。先にも言いましたように、ことばにならないということは、手に入れていないのです。でも、「向こうから」やってきて、それにふと気づいたときは、ことばにならない。「ふと」ということばを何度も使っていますが、「たまたま」でもいい、「思いがけず」でも同じでしょう。「たまたま」のこと、「思いがけない」ことはことばにできません。
 むかしオフコースが透き通った声で「ことばにできない」という美しい曲を聞かせてくれました。「こころ哀しくてことばにできない」、「うれしくてうれしくてことばにできない」。哀しいとき、うれしいとき、それをことばにできなければ、べつにことばにすることはありません、無言のままでいればいいのです。でも、それを誰かに伝えなければならないとしたら…。
 釈迦は気づいたことを何とかしてひとに伝えようとした、というより、もうそうせざるを得なかったのではないでしょうか。得た気づきを自分の胸の中だけに留めることはできなかった。やってきた気づきがそうさせなかったと言うべきでしょうか。しかしどのようにして?
 ひとつは『法華経』のように譬えることです。


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