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むかしの本願がいまはじまる [『正信偈』を読む(その18)]

(9)むかしの本願がいまはじまる

 曽我量深氏は「むかしの本願がいまはじまる」と言います。経典には「本願は十劫のむかしに成就した」と書いてあります。気の遠くなるようなむかしです。でもその本願が〈いま〉はじまらないと、それはむかしのお伽噺でしかありません。
 蓮如さんの時代の北陸地方に「十劫安心」とよばれる考えがあったそうです。本願は十劫もむかしに成就しているのだから、もう安心である、どんな悪いことをしても往生できるのだ、というのです。蓮如さんはこれを「本願へのほんとうの信心がない」と厳しく批判していますが、量深氏的に言うならば、それは「むかしの本願がいまはじまっていない」ということです。
 本願に遇うのは〈いま〉しかありません。
 本願は十劫のむかしに成就したのかもしれません。でもその本願に遇うことができるのは〈いま〉しかありません。「遇いがたくして〈いま〉遇うことをえたり」(『教行信証』序)です。
 ここで改めて「会う」と「遇う」を対比しておきたいと思います。「会う」のは、会おうとして会うのです。それに対して「遇う」のは、思いもかけず、ばったり遇います。そして「会う」のは「これから」です。これから会おうとして会うのです。しかし「遇う」のは「もうすでに」です。もうすでに遇ってしまっていることに気づくのです。
 会うのは「これから」と言うが、「もうすでに」誰かに会ったことはいくらでもあるじゃないかという反論があるかもしれません。でも「きのう誰かに会った」ということは、きのうという時点において「これから」会おうと思って会ったのです。そして「いま」会っている場合でも、その時々に「これから」も会い続けようとしない限り、会うことはすぐさま過去形に滑り落ちていきます。


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