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『正信偈』を読む(その22) ブログトップ

光に照らされるということ [『正信偈』を読む(その22)]

(2)光に照らされるということ

 声を「聞く」のではなく、声が「聞こえる」のだと言いました。同じように、光を「見る」のではありません、光に「照らされる」のです。
 「こちらから」見るのではなく、「向こうから」照らされる。何かを「見る」というのは「こちらから」光を照らすことに他なりません。暗いところで何かを見ようとしますと、懐中電灯やヘッドランプでそれを照らす必要があります。明るくても、何か見ようとしてそこに焦点を合わせようとするのは、光を当てるのと同じことです。
 ぼくらは普段、光を照らすことになれてしまって、光に照らされることを忘れてしまいがちです。
 「見る」ことに一所懸命で、「見られる」ことがどこかに置いてきぼりにされています。小さい頃「お天道様がみているよ」と言われたように思います。隠れて悪いことをしようとしても、お天道様はお見通しだよということです。このように「見られている」というのは「恥ずかしい」ことですが、でも、その反面「気にかけてもらっている」ということでもあります。
 ウィニコットというイギリスの精神分析学者のことばに、「子どもはだれかと一緒のとき、一人になれる」というのがあります(『「存在論的引きこもり」論』)。
 その意味は明らかでしょう、子どもはだれか(多くは親です)に「見守られている」という安心感があってはじめて一人で遊ぶことができるということです。そのとき子どもは光に照られていると感じています。それはどこかから南無阿弥陀仏の声が聞こえるのと同じで、「そのまま生きていていい」と肯定されるというということです。


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