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慈父と悲母(つづき) [『正信偈』を読む(その24)]

(4)慈父と悲母(つづき)

 簡単な書置きだけを残して急にいなくなってしまったぼくに「無事でいてほしい」と念じてくれた父母。その願いがどれほど有難いものかを今更ながら感じます。その願いに包まれてぼくは生きてこられた。
 そんなことを思いますと、名号と光明が父と母に譬えられていることにしみじみとした味わいを感じます。「帰っておいで」と迎えに来てくれた父、「苦労したなあ」と声をかけてくれた母、この二人がそろって、ぼくは救われたのです。慈父と悲母ということばが身に沁みます。
 慈父は「帰っておいで」と手を差し延べてくれ、悲母は「苦労したなあ」と包み込んでくれる。やはり名号が慈父で光明が悲母でしょう。
 慈悲の慈(マイトレーヤ)は楽しみを与えることですが、悲(カルナー)とは呻きという意味です。生きることの苦しみに呻き声を上げることです。苦しみ悲しんでいる人と共に呻き声を上げ、同苦し同悲することで、相手から苦しみや悲しみを取り去るのがカルナーです。
 名号が因で光明が縁、そして名号と光明がそろって往々できるとされますが、よくよく考えますと、名号も光明も本願に他ならず、両者は別ものではありません。南無阿弥陀仏の声が聞こえるとき、同時に光に照らされていると感じるのです。
 『無量寿経』に「この光に遇う者、三垢(さんく、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒のこと)消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し、善心を生ず」とありますように、光に照らされますと、身も心もポカポカと温かくなり、これまでの苦しみや悲しみがウソのように消えるのを感じます。


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